日本語がますますアブナイ・・・

Coucou !!
今日は県民の日でおやすみです♪

最近、更新のペースがおちてますね。
なんだかちょっと・・・気分がのらないです。

ネタ切れデス!!・・・っていいたいとこなんだけど、ブログ・メモにはご質問も書きたいこともビッシリなんだよね。

ぶっちゃけ、ずっとパソコンに向かって発信ばっかりしてるのがつらくなってきちゃったの。
空っぽになっちゃったみたい。

ま、そんなときもあるよね♪

そんなわけで自分の中のフランス語を充電してます。
ひさびさにフランス映画の DVD, あれこれ観たりして。

Raymond Queneau の2冊の本、原語版が届いたので、読みはじめたよ♪

Zazie Dans Le Métro を読みつつ、DVD を観つつしてるんだけど、出だしのセリフなんか原作にものすごく忠実に描かれててびっくりしました!

まだまだ本のほうは最初の数ページだけどね。
この方法、なかなかオモシロイのでつづけたいと思います。

ところで・・・テレビでね、ちょっと気になるドキュメンタリーを見たので、それについて書こうかな、と。
フランス語とは関係ない、外国語学習のムダ話です。

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今の時代は小さいころからの英語学習が話題になってて、いやはや、すごいですね。

実はね、うちのお嬢さんも3歳くらいから、週1回のペースで子ども英語教室に通わせてたんです。
それは英才教育って意味じゃなくてね。

彼女、ちっちゃい頃から、わたしが聴いている洋楽にあわせてそれっぽい発音でモニョモニョ歌って踊るのが大好きだったのです。

それならおなじくらいの歳の子どもたちとそうやって遊んだほうがいいんじゃないかっていうのと、わたしがお仕事してたので、どうせ時間外保育たのむならっていう、とっても安易な気もちでした。

結局、彼女が小学校に上がってから、毎回おなじことの繰り返し、おなじゲームばっかりであたらしいことが覚えられないって本人がつまんなくなっちゃってね。

それから、月1回くるネイティヴの先生が怒鳴るらしいんだけど、子どもだから、楽しんでるのになんで怒られるのか分からない。

それでやめたいっていいだして、彼女自身がバレエひと筋でいくことをえらんだのだけど。

中学に入って英語の授業がはじまったけれど、本人は、4年間つづけた英語教室は役に立たなかったといってます。
週1だし、お遊びだし、それは当然なんでしょうけど。

こないだテレビで見たある日本の小学校、国語以外のすべての授業を英語で受けさせてました。

え・・・ほんとうにそれでいいのかな。
日本にある日本人の小学校なのに、どうして英語で授業を?

小さいときのほうがもちろん、吸収しやすいし、英語にはなじめるようになるだろうね。
英語で考える思考回路も簡単にできあがるだろうね。

でも・・・肝心の母国語は?
家庭教育だけで豊かな母国語がしゃべれるようになるのかな?

わたしとしては、母国語をしっかり学んで表現力や感性を磨いて、「自分のことば」の基盤をつくることはとっても大切だと感じてます。

ひとつの例だけど、翻訳の仕事をするにしても、いくら外国語でその内容が読み取れてもね、日本語でそれを表現する力がなければ無理だと思う・・・。

もっといえば、ただ置きかえていくだけじゃなくて、その場面の雰囲気やことばの下に隠された微妙な感情なんかも、いくつもの表現の中から慎重にえらべるくらいに日本語が豊富なほうが、絶対すばらしい翻訳ができると思うんです。

もちろんことばだけじゃなくて、その背景にある文化や国民性も知らなければ、本当の意味でのことばの理解はできない。

訳すひと自身の考え方や世界観もすごく影響すると思うしね。
外国語を習得するっていうのはもっとこう・・・深いものだと思う。

外国語をやればやるほど、日本語(母国語)を美しくつかえることや深く知ることの大切さを痛感します。
(ふだんはオチャラケてしゃべってるけどね)

いつも、赤ちゃんのように・・・といっているのは、そういうことば文化の、根底に流れる部分から関わっていく必要があるっていう意味も含めてなんだけど。

「話したい、伝えたい!」っていう本能も大切にしたいし、「世界を知りたい!」っていう好奇心や知ることの楽しさをずっともちつづけていきたい、っていう想いもあります。

でもね、人間性やマナーなんていうものは、外国語を学ぶとかそれ以前の問題だと思うしね。

ある本で読んで忘れられないこと。

とあるイタリアの方の講演会で、ひとりの日本青年が質問しました。
講演していた先生はとてもていねいに、その質問にこたえました。

ところがその青年、お礼のひとつもいわず、こういったそう。

「通訳を介さずに先生と直接話したかった、イタリア語をしゃべれないのが残念です。」

そしたらその先生、こうこたえたのだそう。

「どの言語を話すかが問題なのではありません。なにを表現するかが大切なのです。」

さすがだなー、と思いました。
その場で通訳をしていた著者は、先生のそのひとことで胸のすく思いがした、と語っています。

その青年が、そのことばの意味することを理解できたかどうか、それはわかりませんが。
「外国語が話せること」と「きちんと感謝できること」はもうまったく別次元の問題ですよね。

だから、義務教育のうちから「日本語禁止」と貼られた教室で、母国語を豊かにする時間を削ってまで、なんのために子どもを英語づけにしたいのかがイマイチ分かりません。

植民地じゃあるまいし・・・。
一歩学校から出たら、日本文化・日本語だらけの世界。
子どもたちにはどう映っているんだろう。

それより、子どもたちに伝えなければならないもっと大切なことがあるんじゃないの?

まったくもって本末転倒な気がするのはわたしだけですか?