
蚤の市のはじまり。
今日の話題は「蚤の市」。
古い物好きのわたしは、パリと聞けばすぐ蚤の市が頭に浮かびます。
最初のフランス旅行では、6日のパリ滞在のうち半分の3日を費やして、クリニャンクール、ヴァンヴ、モントルイユと蚤の市を渡り歩きました。
そんな蚤の市のはじまりについて、わたしが読んだ本をもとにお話します。
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パリが今のようにきれいで清潔な街並になったのは、ナポレオン3世の命令で、オスマン県知事がパリの大改造を行ってからというのは
ご存じの方も多いのではないでしょうか。それまでのパリは、今からは想像もつかないほど不潔で、「自然発生的に増殖してきた粗末な建物の群が狭い路地の両側に建ち並ぶ」「中世そのままの都市機能しか持たない巨大なごみためのような町」でした。
上下水設備も整わず、夜にはみな窓から(それが何階であろうと)つぼにためた汚物を下の街路に投げ捨てていました。路央下水溝しかない街路には汚物や生ゴミが積もり、すざまじい悪臭を放っていたそうです。
外国で長い間亡命生活を送っていたナポレオン3世がフランスに戻って即位した際、民衆の蜂起を避けるために思いついたのが、人口の密集するパリ中央区と東区を街区ごと破壊し、大砲を通すことができるような、広くまっすぐな通りを作ることでした。
そして、もうひとつは町外れに健康的で清潔な労働者住宅を建設し、労働者たちの生活を秩序良く管理することでした。この改革によって、貧民街はなくなり、街角で働くくず拾いたちの多くが住んでいた安宿も消滅しました。
くず拾いたちは「フォルティフィカシオン」と呼ばれた城壁の外側に住みつきました。
「最下級の娼婦や得体の知れないゴロツキ」が夜になるとうろつき、当時『ゾーン』と呼ばれたこの地域は、軍事目的のため建築が禁止されていましたが、「どこからともなく集まってきた貧民たちが粗末なバラックを建て、そこにビドンヴィルとよばれる貧民街が生まれた」そうです。
住民の多くはくず拾いで、やがて彼らはフォルティフィカシオンの門(ポルト)の回りで、その週に集めてきたガラクタを並べて売るようになりました。
(だから、蚤の市は「ポルト・ドゥ・モントルイユ」「ポルト・ドゥ・ヴァンヴ」「ポルト・ドゥ・クリニャンクール」などにあるんですね)
あるとき、偶然この市を訪れた骨董好きが、薄汚れたヴァイオリンを数フランで買い、のちにそれがストラディヴァリウスと判明。たちまち噂が立ち、さながらゴールド・ラッシュのように、パリ中の人々が市の立つあちこちのポルトに押しかけるようになります。
そして、くず拾いだけでなく、それに目をつけたビドンヴィルに住むくず鉄屋、泥棒や、老舗の娼婦まで売り台を構えるようになりました。こうして、現在の蚤の市が形成されていったのだそうです。
それにしても、どうして「蚤」の市なんでしょうね。
(これを読んだアントワーヌくんは、ガラクタの山の中では、簡単に蚤を捕まえられるからじゃないか、といってました)
今日の蚤の市のお話は、この本を参考にしました。
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(内容「BOOK」データベースより)
パリにはそこに足を踏み入れた者を魅了して止まない、濃密なる「パリ時間」が流れている…。オスマン改造以前、十九世紀パリの原風景へと誘う、華麗なる時間旅行。ボードレール、プルーストの生きた時代のパリの街の音や匂いが鮮やかに甦る、珠玉の知的探求エッセイ集。